@article{oai:yamagata.repo.nii.ac.jp:00001657, author = {奥村, 淳}, journal = {ドイツ文学}, month = {Jan}, note = {論文(Article), ヘッベル(1813-63)は1839年3月にミュンヒェンからハンブルクに帰り,まもなくグツコウや,その協力者ヴィール,そして出版者カンペと知りあう。ヘッベルはグツコウがカンペのもとから発行していた「テレグラーフ(Telegraph fur Deutschland)」紙に,5月より"Gemalde von Miinchen"というミュンヒェンの紹介的記事を何度か発表する。グツコウの「文学年鑑(Jahrbuch der Literatur)」に「ラウべあるいは何かほかの私の気に入っていて,現代の文学の関心とかかわりのある対象」(T.1579)についての論文を書く約束もする。さらにヘッベルは「テレグラーフ」紙に批評女を執筆することも依頼される。グツコウは当時の「文学分野におけるドイツのリーダー」であり,「テレグラーフ」紙は「ドイツの第1級の機関紙のひとつ」(Br・ⅠⅠ,13)であったから,「門は開かれている」(T・1550)とか「人生の新しい展開」(T.1579)というヘッベルの感激は無理のないことだった。「文学年鑑」との約束は実現されなかったが,ヘッベルは「テレグラーフ」紙に1839年5月から1840年7月まで,24篇の論文(主として批評文)を発表することになり,それらは"Die Telegraphen-Aufsatze" と名づけられる。それらの対象となったのは「あまり重要でない作品」(W・X,S.XXVIII)ばかりであり,今では「たいていの著者は忘れられている」。しかし対象とされたもののほとんどが1839年の出版であるから,「文学界でまだ全く無名のヘッベル」が, グツコウなどの「精神的なリーダーとされる文学方向との初めてのつながり」において,「現代の文学の関心」,ひいては同時代の状況といかにとりくんだかを見る上で重要な資料なのである。}, pages = {33--42}, title = {ヘッベルのテレグラーフ論文 : 同時代の文学とのかかわりにおいて}, volume = {72}, year = {1984} }